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  沼の真竹(まだけ)  

 

今から434年前。元亀元年(げんき1570年)、天竜川右岸の緩やかに傾斜する三方ヶ原台地の東南端に旧引馬城を拡張して浜松城が築城されました。
城主徳川家康は当時29歳。その後、17年間この浜松城で過ごしました。

 
  春爛漫、桜に包まれる浜松城 2004年4月撮影(画面をクリックすると全ての写真が拡大します)  
 


元亀3年(1572年)の三方ヶ原合戦で戦功のあった家康の家臣太田沼之助(おおた ぬまのすけ)は、浜松城下(現在の浜松市中区肴町)に住み、彼の屋敷に通ずる小路は沼殿小路と(ぬまどのこうじ)と呼ばれていたと伝えられています。

右は家康が生涯唯一の負け戦となった武田信玄との戦いを肝に銘じ、
自画像を描かせて慢心の自戒とした

 

 

幾つかの合戦で戦功のあった沼之助はその後隠居し、家康から与えられた領地(現在の浜松市浜北区沼)を開村しました。時に天正17年(てんしょう1589年)丑の年のことでした。

地名の沼新田村(ぬましんでんむら=後の沼村)は沼之助の名前から付けられました。湿地帯の沼が由来ではありません。

沼(沼新田村)の所在地は現在の「浜北駅」や「なゆた」が村の南西部にあたり、「浜北郵便局」、「区役所」付近が東部、北は「JA北浜支所」付近まで、西は「静銀浜北支店」付近ですから、小面積ながらこの地が歴史上、浜北区の発展の拠点となってきました。

 

そして、その中央に位置するのが2004年秋に400年祭を迎える沼八幡宮なのです。

八幡宮を中心に描かれた地図、元治2年(げんじ1865年書)太田曠氏所蔵

  現在の沼八幡宮とコミュニティセンター 南方に浜松駅前のアクトタワーが見える
     
 

【沼第一町内会所蔵参考文献】
 明治6年(1873年)当時の沼村の地図が
 克明に描かれている。(左が北方向)
 地主惣代4名の署名捺印、境界立会いの
 貴布祢村、横須賀村、西美薗村の各人民
 惣代 の署名捺印がなされている貴重な絵
 図面。
 

 

沼八幡宮は京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)より御霊分け。

主祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)、天正14年(1586年)3月に鎮座されました。

 
沼八幡宮  2003年4月撮影 後方は旧サンテラスユニー
 
 

信仰心の篤い沼之助は山城の国(京都)の石清水八幡宮を訪れた折、拝受した男山(おとこやま)の真竹の苗(根)を持ち帰り、暴れ天竜の野河原の荒地である沼新田村に植え付けました。

当時、竹は屋根・壁等の建築材料、防風の垣根、戦で使う武器などの用途として貴重な資材でした。村人に植竹を奨励し、幟竿・旗竿・指物竿として長年に亘り、沼の真竹として歴代の浜松城主に献上していました。

当時は大八車で定期的に運んだものですが、その納入記録が400年余を経た今も、古文書として沢山残っています。上納することで村民の兵役が免除されたのです。開拓者精神を持った開祖沼之助は貧しい村人の生活を支えた救世主だったのです。

 

古文書については「浜北市史資料編近世W」の「沼区有文書」に詳しく掲載されています。

左は貞享年間(じょうきょう1684〜1688年)の書、
右は天和3年(てんな1683年)の書、太田曠氏所蔵

     
  沼の真竹は50年程前まで、旧家の裏庭に竹薮としてあちこちに名残を残していましたが、残念ながら、最近の市街化に伴って現在は貴重なものとなってしまいました。
沼之助家の17代目を引き継ぐ太田曠氏宅には400有余年の風雪に耐えた真竹が数十本現存しています。
   
太田曠氏宅の真竹
この神聖な真竹は毎年、八幡宮の祭典時に幟旗や櫓(やぐら)の天辺に付ける慣わしになっています。又、同家には沼之助愛用の脇差や古文書が保管されています。
幟旗
 

御神刀として崇められる開祖太田沼之助の脇差は刃渡り1尺2寸5分(約38cm)。

毎年9月の例大祭には、氏子総代がこの御神刀を神社に奉納し、宮司が太鼓を打ち鳴らして祭事が始まるのです。

 
御神刀を捧げる氏子総代と太田曠氏(右端)    
 

沼之助が京都の石清水八幡宮を訪れてから、実に415年後の2004年(平成16年)9月18日、私は「沼八幡宮400年祭」を翌月に控えて、沼八幡宮と真竹のルーツを調べるために京都府八幡市に向かったのです。

 
     
 

京都の南西部に位置する八幡市の石清水八幡宮は、天正10年(1582年)羽柴秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦い」で有名な天王山と、淀川(桂川・宇治川・木津川の合流点)を挟んで対峙する男山の山頂にあります。
ここは交通・政治・戦略上の重要地でありました。 (地図もクリックすると拡大します)

京の都を中心として、表鬼門に寺(比叡山延暦寺)を配し、裏鬼門に宮(石清水八幡宮)を配することで平安京を守ったと言われています。

文献によると、貞観元年(859)、奈良大安寺の僧、行教(俗称紀氏)が九州・豊前国(今の大分県)の宇佐八幡の神託をうけ、八幡神をこの地に勧請。翌貞観2年(860)4月3日に「石清水八幡宮」が完成。
以来、朝廷の崇敬を得て、伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟と崇められ、源氏もまた八幡神を氏神として仰いだため、八幡信仰は全国に流布したのです。

特に源義家は、7歳になった寛徳2年(1045)の春、石清水八幡宮に於いて元服。以降、「八幡太郎義家」と名乗ったことは有名です。
 
石清水八幡宮境内
   
京都駅→近鉄→京阪電車と乗り継ぎ「八幡市駅」へ着く。駅前の男山(おとこやま)山頂行きのケーブルカーに乗る。
八幡市駅
 
ケーブルカー乗り場
標高142mの男山の「山上駅」まで約3分で着く。境内の裏側こあたる。ここから坂道を5〜6分歩くと広い参道に出る。
ケーブルカー
 
山上駅

そこは南総門に通じる参道である。先ずは手水舎に寄る。手水作法に従って清める。 「立ち向かう 人の心は鏡なり 己が姿を写してや見む」の教えが掲げられていた。

南総門前
 
手水舎

隣接の供御所には郷土浜松が生んだ本田宗一郎の格言があった。

石清水八幡宮は、松下幸之助が深く信仰していたことでも有名である。
中央入り口にどっしりと優雅に構える八幡造りが南総門です。

供御所
 
南総門

南総門の右手前に長寿の木として知られている巨大なカヤのご神木がある。

カヤといえば我が郷土浜松市浜北区(本沢合)が誇る国の天然記念物のカヤの木と比べて下さい。 

カヤのご神木
 
浜北区本沢合のカヤの木
南総門をくぐると広い境内が現れた。この写真でお気付きのように社殿が真正面でなく僅かながら南西向きに座している。 中央に神輿(みこし)を乗せたような二階層なる桜門の左右を、回廊が囲む社殿がある。

焼失を繰り返し、現存している桜門・社殿は寛永11年(かんえい1634年)三代将軍徳川家光により建造されたもので重要文化財に指定されている。
 
楼門・社殿
   
 
  時間が無いので、残念ながら桜門でお参りを済ませて、本殿の外周を回ることにした。  

桜門の直ぐ左脇にナギのご神木がある。縁起の良い木なので由緒ある神社に多い。 

遠州森町の天宮神社のご神木は静岡県の天然記念物。 

ナギのご神木
 
天宮神社のナギのご神木
 

余談であるが、天宮神社では榊(さかき)の代わりにナギの小枝の玉串が使われています。葉の色と並びが美しく、千切れないことから縁結びの木とされているからです。

また、浜松市北区引佐町の三岳神社には、神社へ通じる石段の左右に雌雄のナギのご神木があります。更に、郷土浜北区平口の名刹不動寺の境内にも立派なナギの木が見られます。

 

    天宮神社の玉串
     三岳神社
不動寺の南境内(写真右の木)
 

そして、平成29年NHK大河ドラマ「おんな城主・井伊直虎」の舞台となる遠州の名刹浜松市北区引佐町の龍潭寺のナギのご神木も見事なものである。

樹齢推定400年、樹高19m、幹周2.67mという。井伊家の菩提寺であるこの寺の庭に、24代井伊直政(幼名虎松)が幼少の頃、井伊家の安泰を願って植えられたご神木です。

ナギの木のもう一つの謂れは、風や波が穏やかになる例えで、厄除け災難が収まるとも言われています。

 

石清水八幡宮の本殿の周りには、摂社・末社がずらりと並んでいた。また、石灯篭の数にも圧倒される。しかも同じ形・寸法のものが無いのが興味深い。

建武元年(けんむ1334年)に楠正成公お手植えと伝えられているクスの木が巨木となっていた。

   
石灯篭とクスの木
本殿西側
校倉・住吉社
本殿北側
祈祷受付所
     
  さて、ここから「沼の真竹」のルーツを探ることにした。
境内の何処かに真竹の群生地がある筈だ。しかし、境内は広い。何と、25ha(ヘクタール)76,000坪もの広さがあるのです。先ず、神社東側の裏参道から探してみることにした。
 

どちらを向いても孟宗(もうそう)竹林。
真竹は全く見当たらない。
とにかく石清水社まで足を伸ばしてみることにした。

裏参道
 
裏参道の孟宗竹林
石清水社は、石清水八幡宮の摂社の一つで、天御中主命(あまのみなかぬしのみこと)を祀っています。現在も岩間から滾々と清水が湧き出ている。鳥居は寛永12年(1636年)京都所司代板倉重宗が寄進したものです。
石清水社
 
石清水社の水源
  一旦、南総門の前に戻って社務所で教えて貰うことにした。
応接間で禰宜の稲垣勝彦氏が温かく迎えて呉れました。
沼八幡宮400年祭のこと、真竹のことを説明すると、「表参道の西側の広場にエジソン記念碑があるから、そこへ行けば真竹がありますよ。」と教えてくれた。
 
  更に、孟宗竹について聞くと「長い年月を経て孟宗竹が真竹を駆逐し続けている。」と言われた。いづれは、男山全体を変えてしまうのではないだろうか?という不安を孟宗竹の勢いを見て感じました。 

稲垣氏と別れて「エジソン記念碑」に向かう。
直ぐ、立派な黒石の記念碑が見つかった。
   
社務所入り口

碑文には”Genius is one per cent inspiration and ninety-nine per cent perspiration. Thomas Alva Edison”とある。

「天才とは1%のひらめきと、99%の努力である」
発明王エジソンが残した名言が刻まれていた。

 
エジソン記念碑
   
 

エジソンは、白熱電球のフィラメントの素材を世界中に求めて、助手のウイリアム・H・ムーアを日本に派遣しました。
文献によると、ムーアは、時の首相伊藤博文と山県外務大臣と会い、「竹なら京都へ」とのアドバイスを受け、京都に赴いたムーアは、槙村初代京都府知事から「竹なら八幡か嵯峨野が良い」と紹介されたのです。

時に、明治13年(1880年)夏。沼之助が男山に登ってから、実に291年目にしてアメリカ人が、同じ八幡の真竹に出会うことになったのです。
早速、エジソンの元へ送り、実験の結果、真竹のフィラメントは約1,000時間も灯り、驚くべき結果をもたらしました。

 
     
それから約10年間、セルロースのフィラメントに代わるまで真竹を「八幡竹」という名前で、エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのです。
発明王エジソン

 

馬蹄型電球
  白熱電球の実用化に成功した10月21日は、日本でも「あかりの日」と制定されています。
発明王エジソンの功績を讃えて毎年、日米の両国国旗の掲揚のもと、碑前祭が2月11日(誕生日)と10月18日(命日)に行われています。
   
記念碑前の説明文

記念碑の裏側に小ぶりな竹林があるので、回ってみると、嗚呼・・遂に見つけました。
長年夢に見た、沼の真竹のルーツがそこにあったのです。
415年前、沼之助が遠路遥々、沼新田村からこの八幡宮を参拝し、授かったこの竹の苗を背負って運んだのであろうか・・。

当時のご苦労を偲ぶと、暫しその場に立ち尽くしてしまいました。

 
黒いのは記念碑(裏側)
   
八幡竹は周囲を木々に囲まれているので、想像以上に背は高いが、群生は広くない。腰丈程の下竹の刈り込みがあり、手入れが行き届いていた。

枝を観察すると、DNAが同じだから当然のことであるが、真竹独特のVの字形の枝の出方の特徴が沼の真竹と同じであった。
八幡竹
 
沼の真竹
 

八幡竹と沼の真竹は、育つ土地の環境の違いはあるが、それぞれが持つ歴史を、継承していかなければならない運命にあることに違いは無い。
未来永劫に亘り地中に根を張り、竹の子を生み、子孫繁栄を願うものである。
それにはその土地に住む、多くの人々の理解と思いやりが、時代の変化と共に、益々必要となってくるのではないかと思う。
1ヶ月後に迫り来る、50年ごとに行われ続けてきた歴史的事業を成功させ、次代にバトンを渡すべく努力を惜しんではならないと強く感じた。

Good Luck ! 幸多かれと八幡竹に別れを告げ、もう一度南総門前まで戻り、帰路はケーブルカーに乗らず、表参道を南下し、男山を後にした。

 
     
表参道・南へ
表参道・北へ
鳥居
神馬
裏参道
安居橋
     
あ と が き

『嘗て、貧しい沼新田村の人々を救ってくれた沼之助の功績を残し、沼の歴史を風化させないためにも、沼に住む我々氏子が、貴重な真竹の保護・保存を真剣に考える必要があるのではないだろうか。

400年祭を契機として、沼八幡宮の境内に「真竹の保護地」を造成して保護・管理を図ることを、沼の氏子が果たすべき役割として提言し、450年祭に向けて継承を期待するものである。』 

 
桜に包まれた沼八幡宮2004年4月撮影
   
     
 
◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆  ◇
 
     
 
・ ・ その後、4年余の歳月が経ちました。・ ・
 
     
 

その間、このウェブページを見ていただいた沼第一町内会の多くの氏子の人々から、次第に「真竹の保護地」の造成に賛同する機運が盛り上がってきたのです。

そして、平成21年2月、老人クラブ会長と沼八幡宮氏子総代(6名)の音頭により沼八幡宮境内の東端部に造成することが決まりました。面積は記念樹等の木々の間に幅4.0M×奥行2.0M×深さ1.0Mのブロック積みとなりました。

   
保護造成地に決まった場所
  同年3月6日、沼自治会長、沼第一町内会長をはじめ、沼八幡宮大城宮司、太田曠氏、老人クラブ会長、氏子総代、末社沼祖霊社総代、工事関係者等の出席のもと地鎮祭が執り行われました。
真竹は太田曠氏宅の庭から10本を譲り受けることとなり、同日、現地も御祓いを済ませ、後日移植したものです。以下は工事の概要です。
 
     
掘削排土
ブロック積み
ブロック積み
ブロック積み完了
ブロック積み完了
埋め戻し
整地(内)
鹿沼土(内)
太田曠氏邸の真竹を移植
移植準備
移植資材
混合材
混合土
植え付け(10本)
支え補強取り付け
移植完了
     
 

2004年9月、400年祭を迎えるにあたり、沼に住む氏子の一人として「沼の真竹の保護について」の提言をさせていただいたことが、4年半後の2009年3月に氏子の皆さんのご協力により実現いたしました。これは、長い年月をかけてご理解を頂き、必要性が熟成されたものです。つくづく、インターネットの力に感心するところです。氏子の皆さんのご英断に感謝いたします。

実は、この後太田浩一町内会長のお骨折りにより意外な展開が待っていました。それにつきましては「ふるさと再発見事業」のページでご紹介させていただきます。

     
2009年3月竣工
       
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